■石屋主人日乗
ここは石屋の主人がプラモに関係あるコトやないコトを好き勝手に書き散らすページです。
以前の「ニュース」を改題。ニュースというと城プラモ界のイベントを残らず網羅するような印象になってしまいますが、そんなマメな事をやる気はサラサラないので。
■名将兜シリーズの後期の姿
今回と、もうあと一回くらいを使って、1966年以降、つまり「黒田長政」以降の名将兜シリーズの姿を眺めてみます。
そこには既に初期のアバウトな作風はまったく残っていません。
ひたすらマニアックな道を突き進む相原模型に明日はあるのか!?
この時期の名将兜シリーズは、ひとつひとつのアイテムが綿密に取材され、丁寧に設計されている印象を受けます。
もちろん当時のプラモ界における全体的な品質向上も影響していたと思われます。
しかし、それだけではなく、武具のスケールモデルを開発するという明確な意志がなくては、このようなキットの開発は不可能だったでしょう。
以下、名将兜シリーズの後期の姿を列挙します。定価は箱に記載されたもの、年月は組説に書かれたもので、「少なくとも、これより早い訳はない」という目安です。
なお、品番の変更については
前々回のコンテンツを参照して下さい。
●No.9→7 黒田長政 桃形大水牛脇立の兜 1966年6月 300円
既に紹介済みですが、後期アイテムの筆頭として再度リストアップしておきます。
●No.10→8 加藤清正 立烏帽子経前立の兜 1967年4月 300円

箱の画像はキットの完成写真らしいが、立烏帽子は鉄色で塗装してあるようです。
プロポーションはかなり正確です。ただし立烏帽子の折れ曲がりの表現はやや弱く、しころ下部の曲線も大人しく見えます。
しころは個別に成形されたパーツをミシン糸でつなぐ構造でした。なお、これ以降のアイテムではしころは一体成型となります。
立烏帽子は銀、しころは黒、威毛は青で成形されています。朱色の丸はデカールです。
設計のソースとしては、キット添付のパンフ「日本の兜小史 第3集」に「〜名古屋市中村の妙行寺に秘蔵されている。この程寺の御協力により〜」とあります。

日蓮宗信者の清正にふさわしく、前立には題目と四菩薩が書かれており、キットはこれを金メッキで再現しています。
このような凸モールドの上に金メッキを施す技法は、この頃に登場したと思われますが、その実例として67年は古く、私の知る限りでは最古です。
68年になると日東の明治百年シリーズでも使用例が見られます。
余談ですが、以前このパーツを日蓮宗のお坊様にお見せしたところ、よく出来ていると感心しておられました。
●No.11→9 武田信玄 諏訪法性の兜 1967年7月 300円

特筆すべきは、白熊(はぐま ヤクの毛)がパーツとして入っている点です。
こんな材料をどっから買ってきたのか。カツラや刷毛の原料を物色したのでしょうか。
前立の諏訪法性大明神の文字と武田菱は、清正の経前立と同様に、凸モールドの上に金メッキで表現されています。
プラスチックパーツは比較的単純で、白熊で隠れるためか、威毛もしころと一体成型です。
物足りなさを緩和するかのように、大型の展示台が付属しています。
●No.10 山本勘助 桃形野牛脇立の兜 1969年6月 300円

1969年、NHKの大河ドラマ「天と地と」が放送され、加えて映画館では東宝映画「風林火山」も公開、ちょっとした信玄、謙信ブームの年となりました。
相原模型の「
信玄,謙信軍旗セット」と、名将兜シリーズの「山本勘助 桃形野牛脇立の兜」は、箱に「風林火山」と明記されており、映画にあわせて発売されたものと思われます。
映画「風林火山」は井上靖の小説にほぼ忠実で、物語の縦糸である山本勘助と由布姫を三船敏郎、佐久間良子が演じています。
山本勘助所用と伝えられる桃形兜は現存しており、映画でも三船敏郎がレプリカをかぶって熱演していました。
その兜を模型化したのが相原の「山本勘助」で、兜鉢のランナーを「黒田長政」から流用し、しろこや威毛、立物などの金型を新規に起したものでした。
脇立も新金型で、「黒田長政」とは別物です。脇立の先端は銀色で塗装済みでした。
前立は銀メッキ、垂の威毛を着色するためにデカールが付属するのが面白い。

上は海洋堂の珍重キット版。中身は相原と同じもので、箱だけオリジナルのキャラメル箱に変更されています。
このバージョンが出来た経緯は「海洋堂クロニクル」53ページに詳しく書かれています。
私はこれをモデラーズフリマの海洋堂ブースでふたつ買いました。
●No.11 上杉謙信 三宝荒神の兜 1969年8月 350円

同じく69年には「上杉謙信 三宝荒神の兜」も発売されています。こちらは完全新金型で、箱には「天と地と」と表記されていました。
よく発売したものだと思いますが、確かに並の兜では敵わないケレン味を持っています。
ここまでのキットは基本的に塗装の指定はありませんでしたが、このキットは金色と黒で細部を塗装するよう組説に書いてあります。
なお、このキットも海洋堂の珍重キット版があったようです。
●No.2 豊臣秀吉 一の谷馬藺の兜 リニューアル版 1969年8月 350円

品番は前後しますが、発売時期で並べるとここに収まるアイテムです。
旧版が64年1月発売だとしたら、わずか6年足らずでリニューアルされたことになります。
これが武具におけるリニューアルの始まりで、のちに大鎧と星兜も更新されます。
品番は相変わらずNo.2で、商品名だけでは新旧の区別はつきません。
なお、このキットは現在の童友社版と同じものです。

作ってみました。完成品を眺めると、東京国立博物館の収蔵品をかなり忠実に写していることが分かります。
漆黒の馬藺をどうしても見たかったので、またしても金メッキを落としてしまいました。勘忍してつかあさい。
素組では金色の後立が華やかな兜ですが、馬藺を黒く塗ると一転してデーモニッシュな雰囲気となり、秀吉のダークサイドを垣間見たような心地になりました。
しころの断面は薄く削るとリアルです。
一の谷は見事な造形ですが、パーツ同士の線のつながりが悪いので、継ぎ目をエポキシパテで埋めて滑らかにしました。
鉢の内側の突起を片っ端から削り取り、鉢金(パーツ8)の外側もちょっと削る必要があります。そうしないと鉢金がうまく入りません。
以上で名将兜シリーズのうち、60年代に発売されたアイテムをひととおり紹介しました。
第一回に掲載した
「楠正成」の完成写真と比較すると、著しく成長した後期の姿には驚かされます。
それにしてもマニアックなアイテム選択ですね。ドイツ軍でいうならミーネンロイマーくらいのところまで行っちゃってると思います。
次回は竹雀金物兜と、その部品を流用したリニューアル商品二点をお届けし、本シリーズの解説を終える予定です。
■桃形大水牛脇立兜の塗装とディテール
「黒田長政」の二回目です。今週はいよいよキットを作ってみることにします。
まずは博物館で実物を観察した結果を報告します。
写真撮影は禁止だったので、画像はありません。
そのかわり、現地で走り書きしたメモに加筆し、製作や塗装の参考として公開します。
●兜鉢
黒漆塗り。物の本には「今では飴色に美しい調子が出て」云々と書かれている。
実物の印象は栗色というか、甘栗の殻の焦げたような、わずかにパールっぽさが混じる名状しがたいダークブラウン。
キットでは脇立を取り付ける円型の窪みがあるが、実物にはない。
正中線の突起部分の断面は矩形ではない。エッジも立っていない。
●大水牛脇立
キットの形状はほぼ正確である。あとわずか先端が前傾していれば完璧だった。
黒漆は鉢と違って栗色でなく、文字どおりの漆黒である。金は普通にゴールドを吹いた質感で、激しくハゲチョロ。
わざとムラが出るようにセミグロスブラックを厚く筆塗りして、エアブラシで金を吹きペーパーで磨けばこんな感じになるだろうか。
キットには付根に一本の溝があるが、実際は同様の溝が少なくとも上下にあと一本ずつあるのが見える。後方から観察できなかったので、真後ろがどうなっているかは不明。
正面下部に小さな穴がある。
●石餅前立
取付状態は垂直でなく、鉢の傾斜に合わせて後方へ傾いている(約20度)。
普通にゴールドを吹いた質感、軽いハゲチョロが見られる。
●吹返
栗色革包みの一枚吹返。完全につやのある赤茶色で、革のテクスチャが見える。外側のフチが毛羽立って白く見える。
どうすれば塗れるんだコレは。原色ブラウンの上に薄くクリアオレンジか。革のテクスチャを再現するには本物の革を貼ればよいのか。難しい。
輪郭は単純な角丸矩形ではない。その点はキットもよく再現しているが、もう少し輪郭が上に膨らんでいればよかった。
なお写真によっては吹返の周囲に金色の縁取りがあるように見えるが、これは前述の毛羽立ちが周囲につられて金色に思えるだけで、鎧の鳩尾栴檀のような金属のフチ取りが付いているのではない。
●しころ
一段ごとに栗色革包みとして、光沢のある茶褐色の威毛で毛引威にしてある。威毛は茶色っぽいゴールド。
最下段の菱縫は上から革で包まれているので、革ごしに盛り上がりだけが見える。
革の色は吹返よりもやや沈んだ感じの、完全に艶消しの赤茶色、窪みにスミ入れ。
キットはリベット状のモールドが三か所にあるが、実物は四か所にある。
三段目先端の角アールはもっと丸く、二枚目の小札までアールがかかっている。
キットのシルエットは傾斜が単調で変化に欠けるのが残念。実際の角度は一、二段が約30度、三段が約60度。
左から見ると三段目のしころは前方へ向けやや上向いている。意図的か単にゆがみが出たものか不明。
裏面は漆で塗り固めたようなツルツルモリモリした雰囲気。小札も威毛も露出していない。
●垂など
1965年の写真には写っているが、展示品には付属していない。
写真で見ると、鉢と同様にパールっぽい色に見える。
あごひもは威毛と同じ色の艶消し茶褐色の革で、キットの組紐とは異なる。
●鎧櫃の覆い
櫃は立方体、覆いは茶革で各面に大きく朱色の丸が入る。
なお、実物の写真はネット上にも上がっています。
資料本としては学研の「図説・戦国甲冑集」が比較的安価かつ入手しやすいでしょう。
■パーツの修正
上記の観察結果のうち、できるものは手を加えました。
あとで写真を見て気づいた点も追加しています。
●メッキ落とし
勿体ないですが、サンポールに漬けこんでメッキを落としました。
金メッキ大好きな私としては内心忸怩たるものがあります。許してくれ。
●脇立
先端部が抜き勾配で太く見えるので、断面が真円になるよう削ると太さも良くなります。
先端部があとほんのすこし前傾するよう手で曲げます。

取り外しできると収納に便利なので磁石を仕込みます。
鉢の方には釘の頭を切って仕込みました。この程度でもちゃんと固定できます。
両方を磁石にすると無駄に力が強く、また極性がシビアで位置合わせに神経を使うので、片側はただの金属にしたという訳です。
追記 2014.3.14
脇立の形状修正について
追加記事があります。どうぞご覧下さい。
●しころ
このキットの最大の不満は、しころの傾斜が単調で変化に欠ける点です。
これに限らず、相原はしころの表現があまり上手ではありません。
童友社の最新版ならプラスチックが比較的柔らかいので、形状を修正できます。
相原、緑、および童友社の旧版は材質が硬く、修正は困難です。無理に曲げると割れてしまう恐れがあります。
しころの断面を薄く削ります。これだけでも印象が大きく変わるので是非実行して下さい。

しころ三段め(パーツ18)の両端のアールを大きくします。
丸いモールドの直下からアールが始まります。
しころ三段め(パーツ18)の両端をひねって角度を深くします。
本当は全体の角度を変更したいところですが、そのためには部品の直径から変えなくてはならず、作り直さないかぎり無理です。

角度を稼げるよう、しころ二段め(パーツ14)の接着面の角を落とします、失われたダボを真鍮線で復元します。
しころ三段め(パーツ18)のダボ穴を、穴ひとつ分くらい前方に開け直します。三段目のしころに角度をつける余地を設けるためです。

塗装の後、クリップではさんで強引に接着します。塗装の際は接着面をマスクしておくとよい。
前から見て角度が立つように。横から見てわずかに前上りに傾くように取り付けます。
冒頭の写真を、前回掲載した箱の完成写真と比べてみて下さい。しころの単調さが多少は改善されていると思います。
●吹返

下部外側のアールを大きく、上辺をわずかに反り返った雰囲気に削る。
●鉢

アイスラッガー(笑)の形状を修正します。頂部を拡大し、曲線を整形します。
●前立
前立が鉢に沿って後方に傾くよう、取付け穴を削ります。
●バランス対策
しころが重いので、そのまま飾ると後ろへ傾きます。
飾り台をがっちり接着するか、鉢の前部に約20グラムのバラストを仕込めば安心です。
■塗装
基本的にクレオスのミスターカラー、部分的にタミヤエナメル。
●鉢
甘栗の焦げたような名状しがたい色を再現すべく、ダークブラウンの上からスモークにレッドパール粉を混ぜて塗ってみましたが、別の意味で名状しがたい色ができました。
腹が立ったので黒で塗りつぶしてしまいました。
赤茶色がわずかに透けてみえ、結果的にはさほど悪くなかったのが救いです。
●前立
ゴールドをエアブラシ。
●脇立
セミグロスブラックを筆で3回塗り、ゴールドをエアブラシ。
乾燥後に1000〜1500番のペーパーでハゲチョロ加工をします。
まんべんなく削るのではなく、バランスをみながら、剥がす部分を集中的に磨いた方がきれいです。
そもそも金の塗膜を削るなど論外ですが、他に方法もなし。
一時はどうしようかと絶望するような状態になりましたが、コンパウンドで磨くと何とかサマになりました。
いまひとつ雰囲気が出なかった原因のひとつは、筆ムラが縦方向で単調だったせいだと思います。筆運びを交差させていればもっと良かったかも。
追記 2014.3.14
追加記事の末尾にゴールドの塗料について訂正があります。どうぞご覧下さい。
●しころ
レッドブラウンがなかったので、適当にチョコレートブラウン50%+原色ブラウン50%の色を作り、エアブラシ。
写真では紫っぽく見えますが、実際はもっと茶色です。
●吹返
原色のブラウン、上からクリアオレンジ。
明るすぎたようです。やはりクリアレッドを使うべきだったか。
●垂、飾台、鎧櫃
セミグロスブラックをエアブラシ。
垂の威毛はエナメルのフラットブラックを筆塗り。
●威毛
金50%+ウッドブラウン50%をエアブラシ。
ゴールドのクリア分が強いのでフラットベースで艶消しにしました。
ちょっと地味すぎました。金70%+茶30%くらいでよかったかも。
威毛が本物の紐なら塗装に苦労する事もなかったのですが、そのような構成を採用した場合、とても面倒なキットになったと思われます。
私は以前、着用鎧の製作をお手伝いさせて頂いたことがあります。板物の草摺を素掛威とする比較的簡単な構造で、「ふっ、これなら楽勝よ」と思ったら、意外と手間がかかって驚いたものでした。
まして1/4の兜のしころを毛引威など、考えるだけで恐ろしいです。
実は尾高産業の1/2デラックス鎧兜が、紐を使って威してゆく仕組みのキットでした。
私のコレクションのうち二点は中古のお手つきですが、前のオーナーさんはどちらも途中で製作を放棄なさっています。
多分ものすごく面倒でイヤになったんだと思います。
■鎧櫃

鎧櫃は他のキットから流用。やはり飾り台が立派な方が引き立ちます。
兜が1000円の頃、兜と鎧櫃のセットで1500円の商品がありました。最近ではあまり見かけませんが、お買い得なので発見したら即購入をお勧めします。
メッキパーツをフルに使えば華やかな仕上がりになりますし、作例のように適当に省略して落ち着いた雰囲気にもできます。
今回は黒田長政の兜です。まずは箱の変遷を並べてみました。
せっかくのカッコいいイラストがしだいに小さくなり、最後には消えてしまう様子が分かります。
前回も書きましたが、これは「箱に入っていないものまで描くとヤバいかも」という概念が浸透したせいだと思います。
確かに当時は誇大広告だの上げ底商品だのが問題となった時代ですから、消費者保護の観点からは無意味とは言えないかもしれませんが、何とも世知辛い世の中になったものです。
ところで、画像が小さくて分かりづらいですが、2つめの箱までは「名将兜シリーズNo.9」となっていますが、不思議なことに、3つめの箱ではNo.7に変わっています。
また、「東京 黒田長礼氏蔵」の文字も見えます。これも興味深いポイントです。
今回はこの2点に話題を絞ってお伝えします。いや、決して作例が間に合わなかった、とかじゃないのデスヨ?
●品番変更の謎
現存する資料から推測すると、次のような経緯があったものと思われます。
以下のアイテムは、最初はこのような連番で発売されました。
No.1 楠 正成 三ツ鍬形兜
No.2 豊臣秀吉 一の谷馬藺の兜
No.3 徳川家康 南蛮鉢鹵朶の兜
No.4 織田信長 大円山筋の兜
No.5 伊達政宗 八日月あこだ形筋兜
No.6 上杉謙信 日・月の神桃形の兜
No.7 源 義経 長鍬形獅子頭の兜
No.8 源 義家 長鍬形不動明王の兜
No.9 黒田長政 桃形大水牛脇立の兜
No.10 加藤清正 立烏帽子経前立の兜
No.11 武田信玄 諏訪法性の兜
67年から69年の間のある時期に、No.5「伊達政宗」、No.6「上杉謙信」が絶版となりました。
初期のキットなので出来はよくありませんが、しかしNo.1〜4が生き延びているところをみると、絶版の理由は出来よりも売上の方だったのかもしれません。
この措置に伴い、普通ならNo.5、6は欠番とするところですが、ややこしいことに以降の品番が詰められました。
No.7→5 源 義経 長鍬形獅子頭の兜
No.8→6 源 義家 長鍬形不動明王の兜
No.9→7 黒田長政 桃形大水牛脇立の兜
No.10→8 加藤清正 立烏帽子経前立の兜
No.11→9 武田信玄 諏訪法性の兜
また、この騒動の後に開発されたアイテムは最初から以下の番号で発売されており、これ以外の品番はありません。
No.10 山本勘助 桃形野牛脇立の兜
No.11 上杉謙信 三宝荒神の兜
No.12 源 義経 竹雀金物兜
ひとつのキットが二つの品番を持っている理由は、これ以外には説明できないと思います。
上の画像は末期のキットに添付のパンフより。この当時、相原が品番をこのように認識していたことの証拠といえます。
ただし、品番変更を現物で確認できたのは、いまのところ「No.7 黒田長政」の箱だけです。
それどころか、「源義家」の後期箱など、品番が相変わらずNo.8となっており、混沌に拍車をかけています。
これは、ややこしくて相原自身も混乱しており、自分で変更しておきながら間違えてしまった、という事ではないでしょうか。
●相原はこの兜をいかにして取材したのか
私は今年の3月に福岡市立博物館を訪問し、「黒田家の名宝」展に出品されていた桃形大水牛脇立の兜を見学しました。
このとき、キットがどのくらい実物に忠実かを検証するため、完成品を現地へ持ち込んで実物と見比べました。
もちろん他の見物客に見られると非常に恥ずかしいので、人の流れが絶えたところを見計らって素早くカバンから取り出し、シゲシゲと観察したのであります。
その結果、キットの水牛脇立のパーツは実物の微妙な曲線を見事に写し取っていることが分かりました。いったん後方へうねって前へ突き出す勢いのよい造形はまさに生き写しです。
このような図面を引くには、市販本などの数少ない写真資料だけではとても不可能で、四方八方から撮影した詳細な写真を入手したか、さもなくば実物を存分に観察したに違いないと感じました。
ただ、この兜は今でこそ福岡市立博物館の収蔵品となっていますが、相原がキットを設計した当時は東京の黒田家が私蔵していました。
写真資料を入手するにせよ、何らかの伝をたどって実物を見せて頂くにせよ、素人には荷が重い仕事で、専門家の助けが必要だったでしょう。
それが可能な立場にあったのが、前回も触れた久山峻と日本甲冑武具研究会だったのではないでしょうか。
もうひとつ、実物を見る方法として、展覧会などに出展されたチャンスをつかんで観察する手もあります。
では、当時そのような機会はあったのでしょうか。調べてみると、二回の展覧会が開催されていた事が分かりました。
ひとつは1965年5月に新宿京王百貨店で実施された「日本の鎧兜展」、もうひとつは1966年1月に日本武道館で開かれた「日本武道展」です。
そして、これらの催しには日本甲冑武具研究会が関わっていたのです。
下は「日本の鎧兜展」のパンフレットの表紙。
武具のプラモを開発していた相原善次郎が、この65年5月の展覧会を取材するのはありそうな話で、そこで久山峻と出会ったのではないか。
そして、この当代一流の研究者による指導が、その後の相原模型の性格を決定するひとつの要因となったのではないか。
同社の後期における果てしなくマニアックなラインナップを眺めると、そのような仮説を提唱したくなります。
しかし、「久山峻先生監修」の文字は相原模型の65年版カタログに既に載っているので、カタログが年初や年度はじめに発行されたのであれば、上の仮説は破綻している事になります。
ただ、このカタログが秋の東京見本市の受注用に用意されたものだったとしたら、まだ可能性が残っている訳です。真相はいかに。
なお同書には名将兜シリーズ「黒田長政」「加藤清正」の発売予告も掲載されています。

ところで、こちらの画像をご覧ください。
左は65年の展覧会のパンフレット、右はキットの箱に掲載された解説文ですが、両者は酷似しています。
こうなった理由はいくつも考えられますが、相原善次郎が当時このパンフを読んで参考にした可能性もゼロではないと思います。そう考えた方がロマンがあってよろしいです。
本題に入る前に、まず最初に二つばかり書いておくべきことがあります。
「甲冑プラモ考古学」で参考とするキットや資料には、自分のコレクション以外にも、何人もの方々から善意でご提供頂いたものが含まれています。お名前は挙げませんが、改めて感謝致します。
当時の相原模型の製品には童友社の現行品と商品名が同じものがありますが、童友社版の中身はリニューアルされている場合が多く、ここで相原版について書いたことは童友社版にはあてはまりません。
■名将兜シリーズの初期の姿
名将兜シリーズの箱にはいくつかのパターンがありましたが、No.1〜9は共通デザインのイラスト箱が使われています。
アイテムは以下のとおりです。
No.1 楠 正成 三ツ鍬形兜
No.2 豊臣秀吉 一の谷馬藺の兜
No.3 徳川家康 南蛮鉢鹵朶の兜
No.4 織田信長 大円山筋の兜
No.5 伊達政宗 八日月あこだ形筋兜
No.6 上杉謙信 日・月の神桃形の兜
No.7 源 義経 長鍬形獅子頭の兜
No.8 源 義家 長鍬形不動明王の兜
No.9 黒田長政 桃形大水牛脇立の兜
前回の楠正成に続き、今回はこれらをもう少し詳しく眺めてゆきます。
絵師はどなたでしょうか。伊藤展安画伯の作風にちょっと似ている気もしますが、よく分かりません。
いずれも美しいドラマチックな箱絵ですが、これ以降はキットの完成写真が大きく掲載されるようになり、イラストは小さく載るか、のちには省略されてしまいます。
これは例の「箱に入っていないものまで描くとヤバいかも」という概念が浸透したせいかもしれません。
発売時期は、50年史DBによるとNo.1〜7は1964年1月、No.8が1965年1月、No.9が66年8月予定となっています。
No.8だけが曰くありげに1965年1月予定となっていますが、相原の64年版カタログにはNo.1〜7と並んでNo.8も掲載されており、No.8だけが別個に動いたという傍証は今のところ確認できていません。
いずれにせよ、ここでは、No.9を除いたNo.1〜8をひとまとめに初期グループとして扱うことにします。
なお、No.9を別格に扱う理由はおいおい述べてゆきます。
私はこの初期グループが、さらに2つの時期に分かれるように思います。
その理由ですが、ひとつには以下のように、当時の複数の資料でNo.1〜4だけが掲載されている点です。
・1963年11月発行の日本プラ模型全集。
・キット同梱のパンフ。名将兜シリーズには「日本の兜小史」というパンフがついており、このパンフには少なくとも5種類があるのですが、最初の第1集のみキットのNo.1〜4だけを紹介しています。
もうひとつはアイテム選択や考証レベルの違いです。No.1〜4が最初に完成した金型で、見よう見まねでとりあえず作ってみた習作レベル、No.4以降は多少は研究が進んだ時点の作品ではないかと考えています。
実際には何らかの理由でいっせいに発売されたのかもしれませんが、No.1〜4のみ先行して1963年後半に発売された可能性も否定できないと思います。
アイテム選択をみると、No.1〜4は忠臣ナンバーワンの楠正成が筆頭に置かれ、戦前の皇国史観が色濃く残っていたことを伺わせます。
続いて戦国の三傑が並び、有名どころを取り揃えた品揃えとなっています。戦車で例えるなら、まずはタイガー、パンサー、シャーマンを発売したというところでしょう。
考証的には、正成、家康、信長は「前立しか合ってねえ」のレベルです。
秀吉は有名な一の谷馬藺の兜を模型化しています。このキットの初版は未所有なので詳細な評価はできませんが、当時の完成写真を見ると、形状、細部ともあまり正確ではないようです。
No.5〜8は多少マニアックなアイテムに変わります。
中でも重要なのはNo.7「源義経」とNo.8「源義家」でしょう。
No.7「源義経」の完成写真は
こちらの記事をご覧ください。
初期の作品に比べて、だいぶ星兜としての体裁が整っていることが分かります。
No.8「源義家」など、パーツを細かく見ると、篠垂の先端が片そぎの直線となっており、実物の細部まで考証していることが伺えます。
さらに重要な点ですが、これらの兜は鎧プラモとの関連を無視する訳にはいきません。
なぜならば、No.7「源義経」は緋縅獅子金物大鎧に、No.8「源義家」は浅葱綾威大鎧に付属する兜だからです (注 浅葱綾威大鎧の初版のみ兜は別売)。
相原の64年版カタログには、既にNo.7「源義経」とNo.8「源義家」が載っているところをみると、これらの兜とペアを組む鎧も、その時点で開発が考慮されていたのかもしれません。
そこで、兜はひとまず置いて、これらの鎧の発売情報について調べてみます。
■鎧シリーズの初期の姿
鎧プラモの発売予告ですが、50年史DBを調べると、これが不思議な現れかたをしている事に気がつきます。
No.1 源義経所用 白糸威大鎧 1965年1月
No.2 源義家所用 赤糸威大鎧 1965年1月
No.1 浅黄綾威鎧・兜・大袖付 1966年2月
No.2 緋威獅子金物鎧・兜・大袖付 1967年2月
何が不思議かというと、白糸威、赤糸威という、実際には発売されなかった鎧の名称がまず登場していることです。
これは50年史DBだけではなく、64年版の相原模型のカタログにも同様の記述があります。
内容的にも、義経の白糸威だの、義家の赤糸威だの、兜と関係ない鎧の名前が並んでおり、「そんなヨロイカブト知らんがな」と突っ込みたくなります。
おかしいなあ、兜を企画した時点で鎧も把握してたんじゃなかったのか。せめて威毛の色くらい合わせればいいのに。
これはどういう事でしょうか。兜に比べて鎧の学習は遅れていた、という事なのでしょうか。
その翌年、相原の65年版カタログに、初めて「浅黄綾威鎧兜大袖付」の記述が登場します(注 浅葱綾威大鎧の初版のみ浅黄と表記)。
浅葱綾威大鎧は厳島神社に現存する鎧で、まさしく兜シリーズの「源義家」の相棒にふさわしいものです。このキットは実際に発売されました。
なお、このカタログには、まだ緋威獅子金物鎧兜の記述はありません。
注目すべきは、この65年版カタログで、初めて「久山峻先生監修」の表記が登場することです (←これ重要、試験に出ます)。
久山峻とは、社団法人として当時発足したばかりの日本甲冑武具研究会で初代理事長を務めた人物です。
私はこの方が相原模型を本格的な歴史の深みへと誘ったのではないかと推測しています。
以上から想像を逞しくすると、次のようなシナリオが思い浮かびます。
最初は、詳細を詰めずにとりあえず発表したか、あるいは成形色を変えて二種類を出せばいいくらいに漠然と考えていた。
それが、ある時点で実在の鎧を再現する方針が決まった。もしかすると久山峻のアドバイスがあったのかもしれない。
(補足 実在といっても、緋威獅子金物鎧兜はわずかな残欠が鞍馬寺に現存するだけで、全体像は集古十種のイラストに伝わるのみ)
このように、残された情報をたどってみると、最初に充分な調査をして取りかかったというより、走りながら調べて方針を決めたような、良くいえば勢い任せ、悪くいえばアバウトな気配が感じられます。
ともあれ、初版組説のサインから判断すると、浅葱綾威大鎧の実際の発売時期は1966年で、当初の予定から1年は遅れており、並行して1/500姫路城やAMX30などの仕事もあったにしても、大鎧の開発が難産であったことが伺われます。
下は初版箱。箱絵は高荷義之画伯。
そんなわけで、鎧のキットやカタログには初版当時から「久山峻先生監修」と謳ってあります。
これを本当に実行していれば、当時の金型技術でも考証的には相当に高度な作品を開発できた筈です。
しかし実際の初版を眺めてみると、いささか怪しい部分も見られます。

このパーツは草摺の威毛ですが、漫然と末広がりになっており、設計者が草摺の威しかたを理解していない事が分かります。
設計段階から専門家が丁寧にチェックしていれば、こんな事は起こらない筈です。
もしかすると、久山峻が関与した時点で既に金型は進んでおり、可能な範囲でしか修正できなかったのかもしれません。
なお現在の童友社版の鎧はかなり良くなっていますが、これは何回もの改版を経た結果で、現在では初版のパーツは部分的にしか残っていないのです。

鳩尾板や吹返の革所などは銀メッキ仕上げです。
これくらいは模型的なアレンジとみることもできるでしょうが、あまり感心はしません。
以上のように、推測だらけで根拠薄弱な面もありますが、大鎧の開発の初期段階で久山峻が参加していない可能性は低からぬものがある思っています。
氏が全面的に関与したのは、兜ではNo.9「黒田長政」、鎧ではNo.3の
赤絲威胴丸鎧が最初ではないでしょうか。
これらは、それ以前のキットとは考証レベルが段違いで、ほとんど文句なしの傑作だからです。
次回はこの名将兜シリーズNo.9「黒田長政」を眺めてみます。
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