谷積み石垣シート
●EB002A 石垣シート・谷積(大) 一枚500円
・レジン製の石垣シートです。
・Oゲージ鉄道シナリーやミリタリー、カーモデル等の情景作りに。
・深く明瞭なモールドでスミ入れが容易です。
・ドライヤーなどで温めると柔らかくなるので、曲面になじませることができます。
一般的に、谷積の石の実測値は長辺が30〜45cmくらいの範囲に収まっています(※1)。
新しい石垣ほど石の大きさが揃っているようです。この製品は比較的新しい整った雰囲気を再現しています。
長辺10mmとして造形しましたので、1/32〜1/48程度の情景でお使い頂けます。
サイズは175×70mmで、1/32換算では5.6×2.2m相当となります。

連結して拡張することもできます。
●EB003A 石垣シート・谷積(小) 一枚500円
・レジン製の石垣シートです。
・Oゲージ鉄道シナリーやミリタリー、カーモデル等の情景作りに。
・深く明瞭なモールドでスミ入れが容易です。
・ドライヤーなどで温めると柔らかくなるので、曲面になじませることができます。
一般的に、谷積の石の実測値は長辺が30〜45cmくらいの範囲に収まっています(※1)。
古い谷積ほど石の大きさが不揃いになるようです。この製品は比較的古風な積み方の石垣を、長辺6mmとして造形しました。
1/45の鉄道を上限、1/76程度を下限として、1/64のミニカーや風物詩シリーズを用いた情景など、幅広くお使い頂けます。
サイズは160×43mmで、1/45換算では7.2×1.9mに相当します。
なお、谷積(小)には連結機能はありません。
※1
小野田滋先生の「鉄道構造物探見」にも、
「わが国の伝統的な石材である間知石の語源は、一尺(三〇.三センチ)の石を六個並べると一間(=六尺)の長さを知ることができたためと言われ、このことから一尺がひとつの目安であったと考えられる。」
「一般には、運搬や施工の容易さなどを考慮しておおむね三〇センチ〜四五センチ前後をひとつの単位として整形していたようで(後略)」とあります。
五角形の天端が上になります。
通常、法面の角度は70〜80度と、垂直に近いものが多いですが、河川の護岸や防波堤などでは45度程度の例も見られます。

全国的にグレーの安山岩や凝灰岩が多用されます。瀬戸内の一部地域ではダークイエローの花崗岩の例もあります。写真は尾道にて。目地はこのように練積みとする場合もあります。
なお谷積みは日本特有の石積み技法のようで、残念ながら海外の情景には使えません。

「EB002A 石垣シート・谷積(大)」をざっと灰色に塗って、作りかけのマイクロエース1/32ミゼットと一緒に撮影。

「EB003A 石垣シート・谷積(小)」とアオシマ1/50ダイハツミゼットコレクション。

「EB003A 石垣シート・谷積(小)」にトミカ1/64ダットサン1200トラックを配置。
こちらのpdfをA4原寸で印刷して頂けば、実際にプラキットと比較して寸法を確認することができます。
・片面抜きで製造していますので、裏面は流しっぱなしで、完全な平面ではありません。バリや厚みのムラもあります。
・気泡はゼロが望ましいのは重々承知しておりますが、歩留まりが悪すぎるので、微細なもの3つまでは許容とさせて下さい。
・中性洗剤などで表面をよく洗浄し、サーフェイサーやプライマーなどで下地処理をしてから塗装して下さい。
・この製品に説明書はありません。各自工夫のうえご活用下さい。
・送料や荷姿はエッチングと同様です。詳しくはお店の「
ご購入方法」をご覧下さい。
■付録・谷積み石垣の歴史
谷積み、落とし積みと呼ばれる石積み技法は、江戸時代後期、城郭の修築部分に出現したと言われています。

画像は幕末の落とし積みとして有名な彦根城天秤櫓西側の石垣。嘉永7年(1854年)の大修理の際に積み替えられました(歴史群像名城シリーズ6「彦根城」)。
1868年、元号は明治へと変わり、文明開化の時代、石垣は鉄道など近代的な土木工事に活躍の場を移していきます。
小野田滋先生の「わが国における鉄道用煉瓦構造物の技術史的研究」には
「谷積みは、間知石を斜め方向に積み上げる方法で、文献でも鉄道で発達した石積みの方法として紹介されており、鉄道網の進展と共にこの技法が各地へ広まったものと推察される。」
「少なくとも諸外国における当時の組積法の解説書には現れていないことから、わが国独自の技法と判断してよいと考えられる。」
とあります(以下、引用部分は同書より)。
当時の日本人は、鉄や煉瓦の構造物に関しては西洋の技術を素直に吸収しましたが、石積みに関しては一家言ある専門家が揃っていただけに、大人しく異人さんの言う事を聞いた訳ではなかったようです。
雇外国人いわく、「日本では煉瓦造りはほとんど用いられない。しかも石造建築は劣悪である。(中略)完成した当座は見かけがよく、外見は強そうでも耐久力はないのである」
慶長以来250余年の風雪に耐えた石垣を「耐久力はない」などと言われては、石垣師も黙っていられなかったのでしょう。合端だけ切り込めばよいものを、四角四面に削り合わせたところで費用の無駄、などと反論しています。
「日本の石工が西洋流の組積法を学びつつも、土留壁の構造としては自らの方法が経験的に優れていることを認識していたものと判断される。
こうした雇外国人と日本の伝統的な石工の間の認識の違いから、石積みは西洋から一方的に輸入された煉瓦材料と異なり、谷積みのような独自の技術を編み出すに至ったものと考えられる。」
といっても、明治になったからといって、一足飛びに近代的な整った谷積みが普及し、乱積みが駆逐された訳ではないようです。
例えば、前掲書には信越本線横軽間の土留壁の写真が載っており、これが彦根城の修築部分によく似た乱積みの谷積みであることが分かりますが、横軽間の全通は1893年(明治26年)のことなのです。
私も浅学ゆえ、その過程を詳細に追い切れている訳ではありませんが、やはり大括りに眺めると、最初は乱積みのような積み方から、しだいに整った姿へと変貌していったものと推測されます。
この規格石材を使う整った積み方を間知石積みと呼んで江戸時代の谷積みとは区別する研究者もおられます。

長門市の港にて。埋立地でしょうか。岸に近い部分は乱積みタイプです。

沖へ行くほど整った積み方に変わっていきます。
谷積み石垣は昭和に入ってからも建造され、鉄道構造物のみならず、宅地の土台、切り通しの法面など、幅広い土木工事に活用され、現在でも至るところで見ることができます。
それは連綿と続いた本邦石垣史において、石垣が築き上げた最大版図であり、また最後の輝きであったのかもしれません。
●主要参考文献
歴史群像名城シリーズ6「彦根城」
小野田滋 わが国における鉄道用煉瓦構造物の技術史的研究
小野田滋 鉄道構造物探見
2017.4.25更新
店舗フレームへ
石屋模型店TOPへ