■石屋主人日乗
ここは石屋の主人がプラモに関係あるコトやないコトを好き勝手に書き散らすページです。
以前の「ニュース」を改題。ニュースというと城プラモ界のイベントを残らず網羅するような印象になってしまいますが、そんなマメな事をやる気はサラサラないので。
古いアルバムから資料性のありそうな写真を選んでお送りします。

日本国内航空のYS11とわだ(JA8651)。1971年頃、廃止直前の旧大分空港にて。

ボンネットバスを流用した倉庫。大分交通の特徴的な塗装が懐かしい。90年代、国東の鶴川にて。

1967年前後の津久見駅を岩屋踏切の方から眺める。

大友公園から眺めた津久見駅と市街。当時は多くの貨車を扱う賑やかな駅でした。
●おまけ
レンドリースのマチルダ戦車に興味があっていろいろ漁っていたら、なんか凄いのが出てきたんですが。
http://ww2talk.com/forums/topic/4679-soviet-website-views-on-lend-lease-tanks/
こっちのスレッドは主に連合軍ソフトスキンのボイテネタで盛り上がっており、200ページ越えの盛況です。
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?f=47&t=80610&start=720
ドイツ公文書館の写真いろいろ。膨大な情報量に圧倒されます。
http://histomil.com/viewtopic.php?f=338&t=3918&sid=e6da9d3198e187e63dbf416702a0db55
ホント海外のフォーラムは魔境だぜフハハ。
九州満喫きっぷの残り一枚を使って熊本へ行きました。
せっかく第三セクターにも乗れる切符があるし、寒いから歩くのヤだし、今回は散策より鉄道メインで、
おれんじ鉄道で行けるところまで行ってトンボ返りすることにしました。
有明海や八代海あたりの風景は海と陸との距離感が近く、民家の庭のかわりに海面が広がっているような景色も見られます。
石積みの防波堤、シコロ葺きの民家なども旅情を感じさせます。
上田浦駅の前後には絵になる風景が点在しており、特に波多島の港など、車窓からは一瞬しか見えませんが、これだけでも乗る価値があると思いました。
ただ、本当に一瞬なので写真撮影は失敗しました。「波多島」で検索すれば画像が出てくるので探してみて下さい。
お楽しみの模型店はマルエスとレオナルド7へ行きました。
マルエスではハセガワの1/72チャーチルを購入。こういう定番品をちゃんと置いてあるのが嬉しい。
このキットは30年くらい前にも作りましたが、もうちょっと素材を活かした作り方が出来ないかと思い、リベンジを画策しています。
レオナルド7は自動車がメインかと思っていたので今までパスしていましたが、実際は各ジャンル揃っており、
こんな事ならもっと早く訪問しておけばよかったです。
大滝1/48のP-47がお手頃な価格だったので買いました。
サンダーボルトとヘルキャットは1976年、大滝と木型の飯塚さんがタッグを組んで世に送った最後のヨンパチなので、
模型史的に一度は手掛けてみたかったのです。
どの塗装がいいかな。やっぱりODとグレーが渋いかな。
大滝のヨンパチといえば、次回はP-38とJu-87だという噂が当時ありました。大滝のスツーカ見たかったなあ。
●おまけ

先週使いそびれたフジミのゴールド夢殿。かっけえ。
今回はフジミ建築モデルシリーズの箱絵とバリエーション展開を大まかに追ってみました。

初期の箱はアイテムごとにデザインが異なり、また、同一アイテムにも時期によって複数のデザインが存在しました。
上は法隆寺五重塔のゴールドモデル。金メッキの建物に補色の青を配したシンプルなデザイン。
ひとつのアイテムにカラー版とゴールド版があるのも当時の建築プラモの特色でした。

これはゴールドの箱違い。

石山寺多宝塔のカラーモデル。このタイプの箱は時期的にはおおむね70年代だと思います。
箱の前面はロゴ周りにオレンジ帯を配した共通デザインが採用され、棚に陳列された姿に統一感がありました。

この当時の同シリーズにはカラー、ゴールドに加えて透明ケースが付属するバージョンがあり、カラーデラックス、ゴールドデラックスと呼ばれていました。
上の画像は石山寺多宝塔のゴールドデラックスです。
また、バリエーション展開としては、他にも以前に紹介した
ブロンズシリーズがありました。

この法隆寺金堂は前面のロゴ周りが若干異なりますが、共通デザイン版に近い時代のものと思われます。
青い市松模様は桂離宮を連想させ、いかにも建築モデルシリーズにふさわしい意匠となっています。

おそらく80年代あたりの再版。カラー版のみで、ゴールド
やケース付きは存在しません。
このデザインの清水寺舞台などは確認していないので、全アイテムが再販された訳ではないようです。
●訂正 2016.11

ケース付きはありました。自分で持っていたのに忘れていました。
現行品の画像は省略しますが、「荘厳の輝き」と書いてあるのが現在の箱です。やはりカラー版のみで、ゴールドやケース付きは生産されていません。
近頃はオクでもゴールド版が人気を集めているようですから、限定でもいいので金メッキタイプを生産して頂けると嬉しいのですが。
●追記
人様とネタが被ってないか念のため検索したところ、
Vintage model kits collectionというサイトをみつけました。
トップページからプラモデル→フジミのプラモデルと辿ってゆくと、建築モデルの貴重な資料が公開されており必見です。
なお、本ページには上記サイトと重複している内容もありますが、せっかく作ったので、これはこれで公開させて下さい。
●資料読解
Waffen Revueのカール特集を読みました。
結論から言おう・・・
ドイツ軍は固定砲床の60cm臼砲を急造し、1940年の西方戦役で使おうと考えていたんだよ!
といっても原典に明記されている訳ではありませんが、行間を読む限り、そうとしか考えられないのです。
本稿ではこの件に話題を絞って説明します。
まずは訳文をご覧ください。Waffen Revue Nr.22より、Der 60-cm-Mörser "Karl" (Gerät 040) genannt "THOR" Teil lll の前半部分です。
ただし何といっても私が訳したものですから、間違っていても知りませんよ。
トールと命名された60cm臼砲カール(040器材) そのIII
1939年10月15日の会議において、040器材の固定砲床案が初めて議題となった。数日後の1939年10月24日、ラインメタル・ボルジヒは兵器局第四課に数点の案を提出した(図19) 。
1) ヒラースレーベン実験場の既存のA砲架をコンクリート基礎の上に設置(図19a) (訳注: 画像は省略、以下同)
2)駐退器つき特殊下部砲架に乗せた完成砲架をコンクリート基礎の上に設置(図19b)
3)駐退器つき特殊下部砲架に乗せた完成砲架を木製桁の土台に設置(図19C)
しかし、射撃位置における砲床構築作業の実施は困難で、また、その時点では器材の組み立てに使える適切なクレーンは入手できなかったので、1以下の案は却下された。
さらに問題をややこしくしたのは、兵器局第一課(※1)がA砲架の流用を拒否した事であった。そうしないと彼らは信管と実弾を試験する機会を失うからである。
図19:コンクリート基礎にA砲架を固定設置
図19b: 駐退器つき下部砲架に載せてコンクリート基礎に設置
図19c: 19bと同様だが木製の桁つき
2案と3案は完成砲架の仕上がりしだいであったが、それよりも先に自走車台が完成しそうであったため、兵器局第四課はこれらの案を不適切と見なした。
※1 訳注: 原文で兵器局第一課(Wa Prüf.1)とあります。火砲の担当は四課の筈で筋が通らないがママとしました。
追記・一課は歩兵装備とカン違いしていましたが、独文wikiによると担当は弾薬、弾道なので矛盾はありませんでした。だからウロ覚えで書くなとあれほど。
1939年11月
自走車台とは別個に架装、射撃の試験を実施できるよう、ラインメタル・ボルジヒは特殊砲架ll (図20) の製作を提案した。
この砲架および駐退復座機として機能する射撃砲架は、「ヒラースレーベンの砲架I」の既存の基礎の上に作られ、俯仰角は55~70°であった。
1939年11月29日、この射撃砲架IIの製作は兵器局第四課に承認された。
1940年1月
1月初旬、固定砲床の件が再び問題となった。
自走車台の試験において様々な困難が判明したため、いかなる場合にも器材を使用できるよう、一時しのぎの手段を採用することになった。
1940年2月6日、ラインメタル・ボルジヒは鋳鋼軸受つき木製砲床 (図21)の設計と製造を委託された。駐退器と下部砲架は射撃砲架llより提供された。
この器材の使用も後に放棄されたが、このような大規模な砲床構築による射撃結果の経験を収集することができた。
図21a: 木製砲床に載った射撃砲架ll
図21b: 木製砲床に載った射撃砲架
なお後半は車台の試験、バルバロッサにおける実戦の結果などを説明し、「かくして軍の投資は報われたのである」と結んでいますが、本題に関係ないので省略します。
●年表
原典の記述は余りにも淡々として簡潔です。しかし、時代背景を含めて整理してみると、当時の緊迫した状況が浮かび上がってきます。
(年表中、原典からの引用部分は『』で括ります)
1939年9月1日
ドイツ、ポーランドへ侵攻。
1939年9月3日
英仏がドイツに宣戦布告。ヒトラーにとっては予想外の事態。ドイツは準備不足のまま強敵との戦争に。
1939年10月6日
ポーランド戦が終了。
1939年10月15日
『会議において040器材の固定砲床案が初めて議題となった』
1939年10月24日
『ラインメタル・ボルジヒは兵器局第四課に数点の固定砲床案を提出した』
ただし、これらの案は兵器局によって没にされます。
1939年11月
『自走車台とは別個に架装、射撃の試験を実施できるよう、ラインメタル・ボルジヒは特殊な射撃砲架llの製作を提案した』
なお後述のように60cm砲身と砲弾の開発は進捗しており、既に試射が済んでいたようです。
1939年11月29日
『射撃砲架IIの製作が兵器局第四課に承認された』
1940年1月初旬
『固定砲床の件が再び問題となった。
自走車台の試験において様々な困難が判明したため、いかなる場合にも器材を使用できるよう、一時しのぎの手段を採用することになった』
1月初旬は「座り込み戦争」の只中です。まだマンシュタイン計画が日の目を見ていないというタイミングもミソです。
シュリーフェンプランもどきの当初の侵攻作戦は勝利の決め手に欠けるものでした。
もし戦況が膠着したら、そのときはマジノ線を抜く以外にドイツに勝機はない、という意見も当然あったでしょう。
そのような状況にありながら自走車台の開発は間に合いそうもなく、関係者の焦燥は察するに余りあります。
また、同様にマジノ線対策として開発されていた80cm列車砲も、この時点ではまだ使える状態ではありません。
一時しのぎの固定砲床を開発するというアイデアは、「何でもいいから例の60cm臼砲を使えるようにしろ!」という要求に押されての結論だったのではないでしょうか。
なお、これは1月10日のメヘレン事件とも同時期で、両者の関係を深読みしたくなりますが、このニュースの衝撃が兵器局にまで影響を及ぼすには、ちょっと時間が短すぎる気もします。
1940年2月6日
『ラインメタル・ボルジヒは鋳鋼軸受つき木製砲床の設計製造を委託された。駐退器と下部砲架は射撃砲架llより提供された。この器材の使用も後に放棄されたが、 このような大規模な砲床構築による射撃結果の経験を収集することができた』
1940年2月17日
ヒトラーとマンシュタインの会談。
皮肉なことに、ラインメタルが固定砲床の設計製造を委託された直後、マンシュタイン計画はにわかに現実味を帯びてくるのです。
1940年5月10日
西方戦役の開始。
1940年5月
本命の自走車台が、砲ではなくバラストを搭載した状態ですが、最初のテストに漕ぎつけています。
加えて5月末には西方戦役も勝ったも同然の戦況となったので、マジノ線強襲の可能性も消え、もともと一時しのぎであった固定砲床の開発は、その重要性を失っていったようです。
それでも60cm自走臼砲の最初の領収射撃は同年11月5日、まだ半年も先の事なのです。
それにしても、60cm臼砲の固定砲床は、いつ、どれだけの数が完成したのでしょうか。
そのような肝心のところは原典では明記されず、「承認された」「委託された」などと奥歯に物が挟まったような書きっぷりばかりが目立ちます。
しかし、
「駐退器と下部砲架は射撃砲架llより提供された」
「(鋳鋼軸受つき木製砲床で)射撃結果の経験を収集することができた」
という記述を信じるなら、1939年11月ならびに1940年2月のプランは実際に製造されたと考えるべきでしょう。
ただし、「ヒラースレーベンのA砲架」が既にあるのに、「自走車台とは別個に架装、射撃の試験を実施できるよう」新たな固定砲架を製造する、
という理由は鵜呑みにする訳にはいきません。
そもそも開戦早々に固定砲床案が出てきたり、また、射撃砲架llが「一時しのぎの手段」に活用されている点などをみても、実は保険を掛けたんじゃないか、と思えてきます。
つまり、自走車台の開発が失敗したり、必要なときに間に合わない場合に備え、何としても固定砲床を並行して開発しておきたかった、というあたりが本音だと思うのです。
実際、そのような器材を曲がりなりにも急造できたのだとしたら、それは「こんなこともあろうかと」先を読んで次々と手を打った技術者の功績ではないでしょうか。
ともあれ、1940年のある時期に、固定砲床を備えた60cm臼砲が実在し、実戦に備えて空を睨んでいた、そのような想像を膨らませるのは面白いです。
●補足資料
ヒラースレーベン実験場(Heeresversuchsanstalt Hillersleben)
荒野のど真ん中に長さ30キロの射場を備え、ドーラやカールなど大口径火砲の試射を実施することができました。
なお陸軍実験場の名を冠した施設としては、他にも有名なペーネミュンデやクンメルスドルフなどがありました。
ところで、wikiによると「砲の発射試験は1939年6月に行われた」とありますが、この時点で自走車台はまだ完成していません。
また、原典の記述からみても、39年の時点でヒラースレーベン実験場には60cm臼砲の固定砲架が実在し、「A砲架」と呼ばれていたようです。
http://smg.photobucket.com/user/NagaSadow/media/Karl/-Anschielafette-1_resize.jpg.html
上のサイトに載っている写真は、Waffen Revueの図面と照らし合わせると、どうやらそのA砲架と思われます。
●追記 2017.9
上記サイトで砲架の画像が表示されない場合、「60cm Hillersleben」で画像検索してみて下さい。
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